昨今、尊厳死(death with dignity)という言葉が聞かれるようになりました。尊厳死とは一体何のことでしょうか。今回は、そのことについて考えてみようと思います。尊厳死という言葉を字義通りに解釈すると、それは人間の尊厳を保ちながら死を迎えることであると言うことが出来ます。具体的には、過剰な延命処置を受けることを拒む患者の意思表示によって、医師がそれ以上の処置を施さないことにより患者に死を迎えさせるのです。この考え方は、意志や理性のある人間こそが生きるに値するといった価値観を前提としています。この価値観には、多くの問題点が存在します。まず、意思や理性が外部から確認されえない人は生きるに値しないと言えるのでしょうか。そして患者の意思とは具体的にどの程度の意思のことを指すのか、という点にも疑問が残ります。私は自分自身を含めて、人間はそれほど理性的な生物であるとは思えません。尊厳死という価値観を推し進めようとする人たちは、なぜ人間だけをそんなに理性的な生物だとみなすのでしょうか。彼らの意見を聞くと、人間は生物の頂点に立っていて他の存在はまるで顧みるに値しないとでも言っているかのように聞こえます。彼らは、人間以外の存在は理性的ではないと言うつもりなのでしょうか。私は、例えば猫や蛙、植物などの人間以外の存在を見て、彼らには理性が存在しないなどとは思いません。それどころか私は、彼らに対し計り知れない畏れの気持ちを抱くことが度々あります。人間の生きる世界は、人間にはコントロールし得ない存在たちによって形作られているからです。ベルギーでは2013年11月27日に、安楽死(=患者の要求に応じ、治療を開始しないことまたは薬物を使用することによって患者を死に至らせること)を未成年の患者に対しても合法化する法案が可決されました。それは、国家が個人の自殺幇助を公に認めているようなものです。一口に”患者の意思”と言いますが、外部に対しての患者の意思表示が本当に真意であるか否かということは他人からは分かりません。一人の人間の尊い命が失われることを周囲の人々が後押ししてしまって良いのでしょうか。その根底にある価値観は、極端な理性主義に他なりません。人間の義務とは何か。それは、生きることです。ただ生きることそのものです。理性を保つことではありません。人間にとって生きること以上に大きな義務は存在しないのではないでしょうか。人間にとって最も需要な命の教育が蔑ろにされ、一人一人の尊い命までもが理性主義の犠牲となってしまっている現状が存在するのです。理性のない人間は生きるに値しないとする風潮は、絶対に無くさなければなりません。そのような価値観は、決定的に誤っているからです。人間に限らずあらゆる生物は、懸命に生きようとしてそれでも亡くなる命があるのだと思います。どれほど突っ走っても生ききるということは、あり得ないのではないでしょうか。その人の意思が外部から確認されえないということは、それほど重要なことではありません。人間は生きることそのものを真剣に考えなければならないと思います。尊厳死を認めさせようとする人々は、生きることそのものを考えてはいないと私は思います。生きることとは、理性や意思の問題ではないからです。生命は、理性や意思といった概念に従属するものではありません。”理性とは何か”、”意思とは何か”と頭で考えるのではなく、まず形から入ることは時に必要な事です。形から入ることによって、極端な意思主義や理性主義がひとまず退散するからです。例えば、茶道や華道には作法があります。楽器を演奏するにも、また歩いたり座ったりする時にも形というものがあります。日本人は皆、ご先祖様から生きるための知恵を沢山頂いています。その知恵を使わない手はありません。形から入って悪いことなど何もありません。理性主義を乗り越えてこそ、生きることが始まるのではないでしょうか。私は、理性に囚われている内は未だ、死んでも死に切れないと思っています。私自身も経験したことがありますが、死にたいと思っている人ほど、生きることを望んでいる人はいないということです。理性を崇めたり目指すのではなく、理性を超えた場所を目指すことが倫理になっても良いのではないかと私は思います。すなわち、恥ずかしさや生きにくさを感じている人は、死ぬべきではありません。生きなければならないと思います。なぜ生きることが辛いのか。生きるということを、理性や意思のみによって捉えてはいないでしょうか。生きることは、人間にとって計り知れない領域なのだと思います。もしかしたら命がなくなる最期の一時にさえ、生きることについて何も分からないかもしれない。だからこそ生きるのではないでしょうか。もしも最初から全てが分かっていたとしたら、私は理性や意思というものを疑います。